今年の夏あたりから、ときどき妙な「展開」に遭遇するようになった。メールに添付した原稿や企画書などのファイルをほかの関係者に転送することを「〜に展開します」と表現する人たちがいるのである。

 最初はひどく途惑った。「展開」と言われると、なんだか大袈裟だ。「いやいや、何をなさるおつもりかよくわかりませんが、そんな大層なことはなさらず、ふつうに転送していただければ」などとペコペコしたくなる。

 スクラムやラックから出たボールを颯爽と右や左に「展開」するラグビーのスクラムハーフのプレーも頭に浮かんだ。いま自分が何をすべきかを瞬時に判断して「こっちだ!」とパスを回す姿は、とてもかっこいい。書類を「展開します!」も、無駄にシャープな感じだ。活き活きとした「やってる感」は伝わらんでもない。

 調べてみたら、2016年の段階でこの言葉遣いへの違和感を表明している人もいた。おそらく、いわゆるビジネスパアスンのみなさんの間では、何年も前から当たり前に流通していた表現なのだろう。知り合いの編集者も最近になって遭遇してポカンとしたらしいので、ビジネス業界(なんだそれは)のお作法が出版業界にも遅れて届き始めたということか。異業種からの転職者も増えている印象があるので、今後は「アグリー」とか「アサイン」とかおっしゃりやがる人も出てくるのかもしれない。まあ、私が知らないだけで、とっくにいるんでしょうけど。

 ともあれ、ネット上の解説によると、「展開する」は〈共有する・シェアするといった意味のビジネス用語〉であるらしい。だったら、そう言えばいいのに……と思うわけだが、たぶん、ビジネス用語とはある種の「方言」なのだろう。たとえば北海道では「捨てる」を「投げる」と言うが、「共有する」「転送する」を「展開する」と言うのはそれにちょっと似ている。

 長く東京で暮らす道産子が、帰省したときに「投げる」を「捨てる」と言うようになったら、親はちょっと悲しい気持ちになり、地元ではよそ者扱いされるかもしれない。きっと「ビジネス弁」も、内集団の仲間であることを示すしるしみたいな機能を持っているのだと思う。だとしたら、ちょっと変だと思っている人も、その違和感を脇に置いて使わざるを得ない。

 でも、ビジネス弁が「標準語」になるのはイヤだなぁ。せめて出版業界のみなさまには、「よい子は真似をしないように」と申し上げたい。


BGM : ヘンツェ 交響曲第7番(サイモン・ラトル/CBSO)

ビジネス弁としての「展開」_a0243426_17091567.jpg

# by deepriver1964 | 2023-12-14 17:17

 あれは七月頃だったか、読みたいニュース記事があって、めずらしく週刊新潮を買った。読みたかった記事は思ったほど面白くなかったが、パラパラとページをめくっていたら、五木寛之御大の連載エッセイが目に留まった。

「ああ、まだあるんだなぁ」

 と、シミジミしつつ読み始めたら、これが面白い。エレベーターの開閉ボタンにまつわる話から始まる、およそどうでもいいボヤキ節だが、読ませる。さすがだ。ローティーンの頃に五木寛之のエッセイ集(角川文庫)をよく読んでいた私は、たいへん得した心持ちになったのだった。


 おおまかな世情やシリアスな社会問題、あるいは声の大きな論争などは、SNSに流れてくるリンクを踏めばだいたい把握できてしまう昨今だ。しかしその一方で、「およそどうでもいいエッセイ」的な文章と出会えることはめったにない。ネット上に存在していたとしても、賛否を問うような刺激的な話とは違って、じんわりと読ませる淡々とした身辺雑記は「バズり」とは無縁だ。だから、なかなか遠くまで届かない。せいぜい知り合いの「いいね」がいくつか得られる程度だろう。

 でも、そういう文章が私は好きだ。

 ネットのない時代は、たまたま雑誌や新聞などで出会ったコラムやエッセイを面白がり、しかしどこかに感想を書くわけでもなく、ただちょっと儲けた気分になったものである。その場では、「はあはあ、ふむふむ、ほうほう」などと唸るだけで、「さて飯でも食うか」と日常に戻る。でも、そこで出会ったフレーズや着眼点や発想、あるいは文体などは、カジュアルな教養(?)として頭の片隅に残った。それが、いつかどこかで自分の発言や文章の中に顔を出すのである。「教養」というより「栄養」か。というか、教養の「養」は栄養の「養」なのだな、と、いまさら気づきました。

 ともあれ、ネットだけ見ていたのでは、そういう栄養を摂取する機会があまり得られない。それではつまらないし脳が枯れてしまうので、もっと雑誌を読もう(かな)。衰退する一方だが、やはり雑誌は守らねばいかんのではないか。


 幸運なことに、私はこれまで三つの雑誌でコラムを連載する機会を与えられた。憧れていた仕事なので嬉しかったし、楽しかった。感想を言ってくれるのは担当編集者だけで、世に送り出した後はどれだけの人が読んでどんなことを思ったのか、わからない。でも、きっと誰かに届いている、という手応えはあった。

 インタラクティブ(死語?)でスピーディなネットでの発信と比べたら、それは手紙を空き瓶に入れて海に流したり、風船につけて空に飛ばしたりするのにも似た迂遠な営みかもしれない。でも、そういうものだからこそ、読者のダイレクトな反応を気にして萎縮することなく、のびのびと書けたような気もする。目に見える(あるいは顔の見える)SNSの「つながり」は、私にはいささか窮屈だ。もっと遠くへ向けて書きたい。いや、もっと正直に「放置されたい」と言うべきか。


 紙媒体のコラムやエッセイは、語弊をおそれずにいえば「埋め草」である。あるいは「箸休め」か。もちろんそれが読者の購買動機になることも少なくはない(私もナンシー関やえのきどいちろうさんのコラムを読むために買っていた雑誌はいくつもある)けれど、今回の五木エッセイがそうだったように、基本的には「ついでに読むオマケ」みたいなものだろう。

 ネットは、それが成立しにくい。あるニュースサイトでコラムを連載したとき、私はつい紙媒体と同じ「箸休め感覚」で取り組んでいたが、いま思えば、それはそういうものではなかった。読者には、すべてが単発記事として届く。そこが紙媒体とは大きくちがうところだ。ブログやnoteも然り。何かのついでに読まれるということはない。読み手はどこかでリンクを踏んで、そこに直行する。

 それが、どうも、居心地がわるい。寄り道みたいに読みたいし、読まれたい。私がその方法を知らないだけで、ネットでもそんな「オマケ感」のある場を持つことはできるのだろうか。と、近頃はそんなことをボンヤリと考えている。

 
BGM : ブルックナー交響曲第7番(バレンボイム/ベルリン国立歌劇場管弦楽団)
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# by deepriver1964 | 2023-12-07 18:01

きょうも

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 窓外の空が広いのは、この仕事場の良いところだ。はるか遠くに見える新宿の高層ビル群が、盛大に西日を浴びている。きょうも、もうじき、日が暮れる。ご苦労なことだ。


 LOH症候群は、このところあまり気にならない。目下の最大の懸案は両手の母指CM関節症だ。とくに左手が悪い。痛み止め注射があまり効かないのが困る。

 キーボードを打つ作業は問題ないのが不幸中の幸いではあるが、たとえば着替えがつらい。服の着替えがこんなに親指のつけ根に負担をかけているなんて、ふつうの人はなかなか気がつかないだろう。だが私は知っている。親指が人知れず長いあいだ頑張ってきたことを、私は知っている。


 などと書いているあいだに、窓外はずいぶん暗くなった。西日を見ながら「書こう」と思ったことがほかに何かあったような気がするが、それが何だったのか、もう覚えていない。

# by deepriver1964 | 2023-12-04 16:41

優先席の葛藤

 交通機関の優先席での振る舞い方が難しいお年頃である。

 正直しんどいので、空いていれば座ることに躊躇いはない。車内を見渡しても、自分より年上と思しき人が見当たらないことも多くなった。だが、腰を下ろした後で、明らかに自分より年配の方がそのエリアに現れることもある。

 先日も夫婦で座っていたら、そういう状況になった。キャリーケースをまごまごと転がしながら、老婦人が乗車してきたのだ。

 「誰が譲るか問題」の勃発である。

 両岸の優先席を埋めている8人のうち、4人は明らかに20代〜30代の女性だった。常識的に考えたら、そこで真っ先に立つべきは私ではないだろう。なにしろ私はそこに躊躇なく座る男だ。だが、誰も立とうとはしない。ずっと手元のスマホに視線を落としている。

 もちろん、彼女たちがみんな「見えない障害」とかを抱えている可能性もないわけではない。妊娠していないともかぎらないだろう。ならば自分が…とも思ったが、その数日前にもちょっとややこしいケースがあったので、私は躊躇ってしまった。

 その日は、やはり夫婦で優先席に座っていたところに、杖をついた老婦人が乗車してきたのだが、向かい側の優先席には3人しか座っていない。ベビーカーを前に置いた子連れの夫婦と、膝の上に赤ん坊を抱いた男性だ。どちらも子がいるせいで、空いているひとり分のスペースがやや狭い。

 そのため老婦人は、そこに座るのを躊躇った。彼女は小柄なのでちょっと詰めれば座れそうだが、そうはしない。それを見て、赤ん坊を抱っこした男性が少し腰を浮かせて譲ろうとする。しかし老婦人が頑なに断るので、男性は諦めた。まあ、赤ん坊を抱っこしたまま立っているのも、それはそれで危ないだろう。

 しかしさすがに杖をついた老人を立たせておくわけにはいかない。私は立ち上がって「あの、どうぞこちらに」と言った。ものすごーく遠慮された。お互いに「いやいや」「いやいや」などとモゴモゴしたやり取りを何度かして、半ば無理やりに座っていただいた。立ってからはあまりそちらを見ないようにしていたが、老婦人は申し訳なさそうにずっと下を向いていたような気がする。

 そのとき思ったのは、私のほうも「この人に席を譲らせるのは心苦しい」と思われるような年格好なのかもしれない、ということだ。だとしたら、譲らずに座っていたほうがいいのか。どうなんだそのへんは。

 …という経験をした数日後だったので、キャリーケースの女性を前にした私はすぐに立てなかった。「おれなのか? このメンバーの中で誰よりもおれが譲るべきなのか? そうなのか?」「このメンバーの中でおれが譲ろうとしたら、老婦人は困惑するのではないか?」などと考えているうちに、いまさら立つのは不自然なタイミングになってしまったのである。

 だが、やはり、いたたまれない。しんどいから座っていたいけれど、何か間違ったことをしている気がする。でも、そのタイミングで「どうぞお座りください」と声をかけるのはものすごくおかしい。「おまえは今の今までどうすべきか悩んでいたのかよ」と思われてしまう(実際そうなんだけど)。しかもそんな間抜けなタイミングで譲ろうとして断られたら惨めだ。

 その場から逃げ出したくなった私は、スマホのメモアプリに「次の駅で隣の車両に移る」と書き込んで隣の妻に見せた。「降りたフリして席を譲っちゃおう大作戦!」の発動である。自分だけ移動するつもりだったが、次の駅で降りたら妻もついてきた。隣の車両に移って、遠くから老婦人の様子を探る。

 同じ場所に立っていた。座る気なかったんかーい。

 還暦前後の年代は、優先席で余計なことを考えず、ただ悠然と座っていればよいのかもしれない。だって、しんどいんだから。


BGM : ブルックナー交響曲第2番(シモーネ・ヤング/ハンブルク・フィル)
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# by deepriver1964 | 2023-12-03 17:10

かなしみとワクワク

 10日ほど前に送ったメールの返信が待てど暮らせど届かず、昨日まで悲観的な気分にどっぷりと浸っていた。仕事には集中できないし、ブログを書く気にもならない。そういう場合、これまでならイライラして怒りの感情にとらわれたものだが、やはりテストステロン不足だと攻撃性が減退するのか、「かなしみ」としか言いようのない漠然としたモヤモヤが胸のあたりでゾワゾワと渦巻くのである。

 しかし、昨日やんわりと催促のメールを出したら今朝やっと返信があり、停滞していたファミリー案件が前に進みそうな雲行きになった。途端にモヤモヤが晴れて、こうしてブログを書く気にもなるのだから、更年期のメンタルとはデリケートなものだ。まあ、人間の心なんていつだってそんなものかもしれないけれど、浮き沈みのギャップが大きすぎて自分を持てあましちゃうよまったく。


 当面はひと息ついたものの、また何かちょっとした心配事が生じれば一気にすとーんとダウナーに転じるのであろう。LOH症候群の治療は治療で続けつつ、もっと根本的なところで仕事や生活を見直さねばいかんよな、という問題意識はずっとある。

 なにしろ「ワクワク」がないのがいかん。いまから振り返ると、子育てはワクワクとドキドキのかたまりのようなエキサイティングな営みであった。ひとり立ちさせるまでいろいろ大変だったし、早く終わらんかなぁとも思ったけれど、終わってみるとアレはアレで有り難いものだったと思う。それに匹敵するワクワクはなかなか得られそうにない。残された道は、せいぜい「自分育て」ですかね。と、柄にもなく自己啓発書みたいなことを言ってみたりしちゃうあたりが、更年期メンタルなのだった。

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BGM : Tina Brooks "True Blue"


# by deepriver1964 | 2023-10-18 13:02