海江田哲朗氏のブラインドサッカー記事を読んで

 国内でブラインドサッカーの国際試合が開催されると、ふだんサッカーやスポーツを専門にしている書き手が、過剰に「障害者スポーツ」を意識した記事を発表する傾向がある。たとえば昨年3月のドイツ戦(さいたま市ノーマライゼーションカップ)のときは、ブロガーの中山記男氏がブラインドサッカーに見た、サッカーという競技の「原点」という記事の中で、「判定に食い下がることも無く、結果だけを受け止め粛々とプレーするその姿はとても純粋で美しかった」と書いた。初めてブラインドサッカーをご覧になったJFA公認C級コーチには、選手たちが盛んに審判にクレームをつける姿が目に入らなかったようだ。

 昨年11月の世界選手権では、故・阿部珠樹氏がブラインドサッカーの魅力と危惧。見る者を圧倒する激しい“肉弾戦”。の中で、ゴールボールとブラインドサッカーを比較し、「目にハンデのある人が、安全に楽しく、勝敗を度外視して楽しむスポーツではなくなっている。強さの追求はほかの人気スポーツとほとんど変わりがない。それが正しいのかとなると、目の前の楽しさを単純に称賛するわけにもいかないように思え」ると書いた。私は先ほどの中山氏の記事を幻冬舎plusの連載で批判したが、この阿部氏の記事についてはまともな反論を書く機会を逸していたことが悔やまれる。お亡くなりになる前に、ちゃんと議論しておきたかった。簡単に書くなら、私の意見はこうだ。選手たちには、健常者と同様、怪我のリスクを負ってプレーを楽しむ権利と自由がある。健常者側が過保護に走るのは、それ自体が差別的だ。

 さて、今回のアジア選手権2015も、終わるやいなやこんな記事が発表された。海江田哲朗氏の【ブラインドサッカー日本代表】障がい者スポーツに「勝負の駆け引き」を求めるのは酷か?である。ツイッター上でこのタイトルを見た時点で、首をひねった。この質問に答えるなら、「ん? いや、べつに酷じゃないっすけど? なんでそんなこと聞くの?」というところだろうか。論点の設定自体がよくわからない。失礼な言い方かもしれないが、正直、ポカンとさせられた。

 海江田氏が大会の象徴として取り上げたのは、4日目の中国対イランである。あの試合については、さまざまな意見があるだろう。海江田氏は「善し悪しは別にして、こういった駆け引きもまた、まぎれもなくサッカーの一部である」としている。「サッカーの一部」かどうかは価値観によるとは思うが、ルールの範囲内であることは間違いない。私は試合翌日に発表した「ブラインドサッカーアジア選手権2015」スタンド満員化プロジェクト 第9回 サッカーの神様は誰に微笑むのかの中で、「ルールの範囲内で行われたことである以上、(事前に談合があった明確な証拠でもなければ)処罰の対象にはできないだろう」とした上で、善し悪しを脇には置かず、あれが当の中国とイランにとっても「悪」である理由を明確に論じたつもりである。

 海江田氏は、中国とイランのやり方を「したたかな駆け引き」と評価し、その試合内容に対して記者会見で不満を表明した魚住監督を「いかにも教育者の顔である」と決めつけた。これは個人の主観だからどう感じるのも自由だが、少なくとも私の目には、まったくそんなふうに見えなかったことをお伝えしておく。私も、そのミックスゾーンにはいた。遠くてよく聞こえなかったので、会見場から引き上げる前の魚住さんに「いま、最後に『不満』とおっしゃったんですよね?」と確認した。魚住さんは苦々しい表情で、「そうです。不満です」とくり返した。戦う男の悔しさが滲み出ていた。私には、そう見えた。

 たしかに、魚住さんは高校の教員である。前任者の風祭さんも、中学校や特別養護学校の教員だった。でも、ブラインドサッカー代表チームの指揮官としての2人は同じではない。私は魚住さんの教え子と話をしたこともあるので、彼が立派な教育者であることもよく知っている。しかし大会前にインタビューした際、私は魚住さんにこんなことを言った。風祭さんはブラインドサッカーの現場でもどこかに「教育者」の顔が見えたけれど、魚住さんは勝負に徹している印象があります——と。

 それはそうだろう。日本のブラインドサッカー黎明期から代表チームに関わっていた風祭さんは、この競技の「普及」と「強化」の両面で仕事をしなければならなかった。当然、そこには教育者としての役割も求められる。それに対して、魚住さんが求められたのはただひとつ、勝つことだけだ。そのために、海外遠征をはじめとして、風祭監督時代にはなかった強化策が次々と実施された。勝つ確率を上げるために、かつてなかった強力なバックアップ態勢が敷かれたのだ。そんな「総力戦」の最前線に立つ監督に、勝負師以外の顔などあるはずがない。私のインタビュー記事でも、魚住さんは「どんな手を使ってでも勝たなければいけない」と語っている。そこにも「教育者の顔」など片鱗もなかった。

 実際、日本チームはさまざまな「手」を用意していた。たとえば韓国戦のコーナーキックで見せた「4秒ルールの活用」もそのひとつだ。笛が鳴ってもすぐにはボールを動かさず、相手を先に動かせて、どの選手がボールホルダーにアプローチするかを確認する。ルールの範囲内で敵を引っかける頭脳プレーだ。「謹厳実直」なチームはこんなことをしないだろう。

 それ以外にも、大会前の合宿では、審判の判定を有利に導くための策略や、ルールの裏をかくプレーを首脳陣が画策する姿があった。今後のこともあるので詳しくは書かないが、書けないような作戦を立てていたチームを「したたかさが皆無」と評する海江田氏には、まったく同意できない。ちなみに日本チームは風祭監督の時代にも、2010年の世界選手権で途中起用した寺西に、フェンス際でボールキープさせたことがあった(相手はボールを取りに来たので中国×イランとはまったく意味が違う)。レギュラー選手を休ませるための、きわめて現実的な作戦だ。昔から、けっこう狡賢いチームなのである。

 さらに、海江田氏の記事でもっとも不可解なのは、日本チームが「謹厳実直」で「したたかさは皆無」だとした上で、その背景にあるのが「障がい者スポーツに注がれる社会の視線」としたところだ。「障がい者スポーツに対して、ひたむきで純真であること、無垢であることを求めすぎ」る人々は、たしかにいると私も思う。先ほどの中山氏もそのひとりかもしれない。そういう先入観があるから、審判に抗議する選手の姿も目に入らなくなる。人は、自分の見たいものを見ようとするものだ。

 しかし問題なのは、この記事の文脈では(やや論旨が不明瞭ではあるが)その「社会の視線」があるから日本チームが「謹厳実直」に振る舞わざるを得なくなっているかのように読めることだ。そういう趣旨だとすれば、牽強付会と言わざるを得ない。

 記事には「日本代表の選手たちは総じて利発で、礼儀正しい。ひたむきな姿勢が多くの人々に好感を与え」るとある。これは私も否定しない。しかしそれは、「障がい者スポーツに注がれる社会の視線」を意識したものではないだろう。国の代表選手として、健常者競技でも求められるのと同じ態度を、彼らも見せているだけだと私は理解している。彼らが日常生活でいつもピュアな「良き人」を演じているわけでもない。残念ながら名著ではないので海江田氏はお読みにならないだろうが、拙著『闇の中の翼たち』(幻冬舎)では、彼らが口にするブラックジョークもそのまま書いた。

 記事の前半がなければ、後段には(とくに新味はないが)頷ける部分はある。しかし後段で書かれたようなことは大半の関係者が昔から問題視しており、そのために代表チームの振る舞いが変わることなどあり得ない。むしろ多くの選手たちは、そのような偏見を打ち破りたいと思っている。そのあたりも、拙著を読めばわかるはずだ。いや、私の書いたものなど読まなくても、選手たちのプレーを先入観なしでまっすぐに見れば、誰にでもわかることだろう。もしそれが見えない人がいるのだとしたら、その人の中にこそ、障害者スポーツに対する偏見があるのではないかと思う。
by deepriver1964 | 2015-09-09 14:32